ハワイでの生活が1年を過ぎた頃、私たちの日常は、かつての不安が嘘のように穏やかで、刺激に満ちたものになっていました。
2歳で移住した次女は4歳になり、現地の幼稚園(プリスクール)では「音」を完全に自分のものにしていました。お姉ちゃんは家族の立派な通訳として、ハワイの街を堂々と歩いていました。
生活のリズムも整い、お気に入りのビーチや、5時のアイスクリーム、週末のプール。すべてが「当たり前」になった時、私たちの心にはある誘惑が芽生えていました。
「あともう一年、ここに居られないだろうか?」
「嫌だー!」その言葉に救われた瞬間
ある日の夕食時、私は意を決して二人に向き合い、日本に帰ることを告げました。
「もうすぐハワイとお別れして、日本に帰るよ」
すると、間髪入れずに二人から返ってきたのは、予想を上回る強い拒絶でした。 「嫌だー!もっと居たい!」
その泣きそうな顔を見た瞬間、私は不謹慎ながら心の底からホッとしました。 親の勝手で連れてこられた異国の地。言葉の壁や文化の差に、不自由な思いや寂しい思いをさせていたのではないか。心のどこかでずっと抱えていたその「罪悪感」が、彼女たちの叫びによって一気に消し飛んだのです。彼女たちはこの生活を嫌々送っていたわけではなく、自分たちの意思で愛し、楽しんでくれていた。その事実は、私にとって何よりの救いでした。
絶好調の時に「引き上げる」という戦略
仕事の都合もありましたが、それ以上に私を立ち止まらせたのは、第4回で直面した「言語のトレードオフ」という冷徹な事実でした。
もし滞在を延ばしていたら、英語はより強固になったでしょう。しかし同時に、「日本語の根っこ」がハワイの土壌に入り込みすぎ、帰国時の摩擦が耐え難いものになったかもしれません。特に4歳という時期は、言葉が単なる音から「思考」や「概念」と結びつき始める重要なフェーズです。
「もう少し、この夢の中にいたい」という甘い誘惑を振り切り、私たちは当初の予定通り、1.5年での帰国を決断しました。
「腹八分目」がもたらした20年後の結果
結果として、この「少し物足りない」と感じる時期に帰国したことが、その後の20年に決定的な好影響を与えました。
ハワイで英語を「完成」させなかったことで、彼女たちの中にポジティブな飢餓感が残りました。「もっと話したかった」「もっとあの中にいたかった」という思いが、帰国後の日本での地道な英語維持を支える、強力なエンジンになったのです。
さよなら、私たちの「実験場」
帰国の数日前。お世話になったプリスクールの先生、通訳として助けてくれた長女の友人たち、そして何度も通ったディッピン・ドッツのアイスショップ。すべてに別れを告げました。
飛行機の窓から遠ざかっていくダイヤモンドヘッドを見つめながら、私は心の中で誓いました。 「この1.5年で彼女たちの脳にまいた『種』を、日本という全く違う土壌で、絶対に枯らさない」
ハワイでの生活は、これで終わり。 しかし、バイリンガル教育という名の「20年にわたる壮大な実験」は、ここから第2章へと突入します。

第6回への予告
帰国した私たちを待っていたのは、ハワイの風とは無縁の、日本の日常でした。 「せっかく身についた英語を、どうやって守ればいいのか?」 週1回の英会話教室では絶対に守れない。私が編み出した、「日本にいながらハワイの音を維持する」ための攻めの戦略についてお話しします。
次回、第6回「週1回の『アップル!』は無意味。私が選んだ英語環境の守り方」。 ここから、私たちの「日本での戦い」が始まります。

